日記。

ただつらつらと。

要らぬアドバイスと平和ボケ。

最近いくつかの気付きがあったので、書き残していきたい。

 

 

 アドバイスしても良い人は、たくさん勉強をしている人

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人間は人より優位に立ちたい、という意識を潜在的に持っている。

その意識が非常にやっかいで、無駄に着飾ったり、ブランド品を立場以上に買い揃えたり、自己顕示したり、要らぬお節介で人に助言したりする。

 

そして、そのどれもが不要であると私は考えている。

 

そう考えていながらも、私自身もそのジレンマに陥っていることを自覚しているし、できるだけ私自身も他の皆さんも控えていくべきものだと思っている。

 

とりわけ、「要らぬお節介の助言」はとても厄介である。

 

「要らぬお節介の助言」は信用をなくし、品位を落とす

たとえ話。

 

パターン1:

Aさんが"走ってはいけない"場所で走っているのを見かけ、Bさんが「ここは走ってはいけないよ」と注意する。

 

この場合は、明確な基準(ルール)に基づいて助言をしているので問題ない。

"走ってはいけない"という具体的なルールを破ってしまい、Aさんに非があることが明確だ。

しかし、実際のケースではこういう白黒がハッキリしている場面は少ない。

 

 

パターン2:

Aさんが"歩いたほうがよさそうな"場所で走っているのを見かけ、Bさんが「ここは走ってはいけないよ」と注意する。

 

この場合だと明確な基準(ルール)に基づいて助言しているのではなく、"歩いたほうが良さそう"という主観に基づいて助言している。

 

この状況の場合、たとえばもしかしたらどこかに「走ってOK」という看板があるかもしれないし、たまたま自分が歩いたほうがよさそうと思っているだけで、実際は走ったほうが正解なのかもしれない。

 

世の中の明確な基準(ルール)を知るには

世の中の明確な基準(ルール)を知るには、「読書」が良いツールである。

人から聞いた話でも悪くはないが、偏った意見を言う人も居れば、思いつきで言う人も居る。

また、人の話は「受動的」であるが、読書は「自発的」である。

 

「自発的」…「自発的」は、他からの働きかけがなくても自分からすすんで行うという意味合いが強い。「積極的」「能動的」は、他からの働きかけとは関係なく、すすんで物事を行ったり、他に働きかけたりするという意味合いで使われる。

https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/2408/meaning/m0u/%E8%87%AA%E7%99%BA%E7%9A%84/

 

自発的であるが故、自らの判断を持って正しい・正しくないを決めることができるため、偏った情報に流されることも少ない。

あとは下手に人に助言せず、公平な目を持って、正しい判断基準を自分の中に作っていくことが大切なのである。

 

「平和ボケ」している自覚が足りない。

冒頭にも書いたとおり、このことは私自身の「気付き」である。

つまり、私自身も最近「平和ボケ」していると痛感している。

 

「平和でいること」と、「平和をつくること」は全く違う

私は地方で働いているが、都市圏の人よりも「平和でいようよ。」という気持ちが強いことを感じる。

「衝突を起こさなければ、みんな笑顔でいられるよね。」という考えだ。

 

しかし、世の中そう上手くもいかないことが多い。

歴史を見ても分かるように、弱い地域は強い地域によって攻められ、滅ぼされるか、乗っ取られるのである。

だから「平和でいる」のではだめなのだ。「平和をつくら」なければいけないのだ。

そしてこれは地方だけの問題ではなく、日本全土で考えるべき問題だと考える。

 

競争意識の低い日本

https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/researchfocus/pdf/8232.pdf

「起業促進に向けたインバウンド戦略 ― 海外における外国人起業人材の受け入れ促進策と日本への示唆 ― 調査部 主任研究員 野村敦子」

 

上記の資料を読んでもらうとわかるように、イギリスでは、起業人(起業準備している人、起業3〜5年未満の人)のうち、自国民が約8%、多国籍民が約16%と、起業家の2/3程度が多国籍民なのである。

 

それに比べて日本はどうか。

具体的な数字は出ていないが、まだまだ外国人起業家は少ないように思う。

 

これは日本での起業ハードルが高いことが直接的な原因であると思うが、このハードルは移民政策を見ていても分かるように、これから低くなっていくと予想される。

つまりイギリスのように日本人以外の起業家数が、どんどん増えていくのだ。

 

そんなときに、平和ボケした日本人はどうなるか。

積極的に「平和を作ろう」とする気概のない人は、どうなるか。

滅ぼされるか、乗っ取られてはしまうのではないか。

 

大切なことは平和にいることよりも、平和でいようと働きかけることなのではないだろうか。

 

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「論理的思考力を伸ばすということは、結合するアイデア領域を拡げるということ」

この気付きも書こうと思ったが、時間切れ。

 

いつか機会があれば書きたい。

 

 

その瞬間その瞬間の、ベストを尽くすこと。

 

仕事と心の流儀 (講談社現代新書)

仕事と心の流儀 (講談社現代新書)

 

 

私自身、精神的基盤は「仏教」に置いている。

何かの判断に迷った時は、常に善行を行うように心掛けている。

 

そしてこれまで数十の経営者が書いた書籍を読んできたが、多くの日本人経営者は信仰があるないに限らず、仏教的思想を持っている可能性が高いように思う。

 

経営アイデア・人間的指針の大方は「その瞬間にベストを尽くすこと」から派生している

自己啓発でよく言われる「その瞬間その瞬間、ベストを尽くせ」という言葉は、言われすぎて陳腐に感じる人も多いと思う。

私もこの言葉をよく見たり聞いたりすることが多すぎて、嫌気が差したこともある。

「長期計画を推奨している作家はどんなことを書いているんだろう」

とひねくれた考えを持ち、対峙している本を読み漁ったこともある。

 

「今日死ぬと思って生きる。」が、腑に落ちなかった。

その瞬間を生きるための一つの方法として、「今日死ぬと思って生きろ。」と自分に言い聞かせる方法がある。

スティーブ・ジョブズは毎朝鏡に向かって「今日死ぬとしたら何をすべきか?」と自問をしていたようだし、マイケル・ジャクソンや他の著名人もそういう方法を取っている場合が多い。

 

この言葉を知った当時、正直まったくこの言葉が腑に落ちなかった。

「1日以上かかるプロジェクトの場合、完遂せず終わってしまうではないか。今日死ぬのなら、志半ばで終わるからモチベーションが生まれないのでは」

ということを思っていた。

 

幸い、なのか、私自身が「死」に近づく経験をしたことによって、この言葉が腑に落ちる瞬間があった。

私の1つの目標というか、人生の結びに、「ありがとうと言って死にたい。ありがとうと言われて死にたい。」というゴールを迎えたい。という考えを持っている。

その為に何をすれば、その為に何をすれば、という源泉を辿った結果、毎日ベストを尽くして生きることに繋がったし、「今日死ぬと思って生きろ。」という言葉の意味を理解できた。

 

この言葉は、身をもって「死」を近く経験した人が理解出来る言葉だと思う。

それか、「死」について時間をかけて理解を深めた人。

 

そしてこの考えが腑に落ちることは、人生にとってとても有意義であることも感じている。

 

しかし消えない「終わらないプロジェクト問題」

しかしやはり「今日死ぬと思って生きろ」理論では、長く続くプロジェクトをどう捉えるか、という視点が抜けてしまっていると思っていた。

「全力で1日1日生きる」という側面は十分理解できたが、それは瞬間的であり、長く続く課題の対処が分からなかった。

イチローの日々の練習は瞬間的なものではなく継続した努力の賜物であると思うし、世の中の偉大な業績は瞬発的な努力だけでは成し得ていないと思うからだ。

 

そして今日....

重要な事実に気付いた。

 

「今日死ぬと思って生きる」という言葉には続きがあったのだ。

 

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」byガンジー

「明日死ぬと思って生きなさい。」に「永遠に生きると思って学びなさい」と言葉を続けたのは、ガンジーである。

 

ここでこの腑に落ちない部分を解消できる光が少し見えた。しかし、あと少しだ。

なぜ永遠に生きるから、学ばねばならないのだ。何故だ。

 

 

そして、そこで「仏教」に繋がった。

是非ここまで読んでくださった方には、以下の動画を聴いてほしい。


なぜ成功者はお墓参りを大切にするのか

「永遠に生きる」=「家系の継承」

永遠に生きるという考え方を、私は自分の子孫に魂を託すことだと考えた。

 

次代の子孫が、この私の「生き様」をどう捉えるか。

もし学ぶことをやめたとしたら、子孫はどう思うだろうか。

 

そう考えると、自然と「永遠に続くこと」と「学び続けること」のモチベーションに関する繋がりが出来る。

 

つまり「子孫に誇れる生き様にするために、常に学び続けるべきだ。」というのが「永遠に生きると思って学びなさい。」というガンジーの言葉の、私なりの解釈だ。

 

総論:「常にベストを尽くす」ということ

タイトルにも掲げた「その瞬間その瞬間の、ベストを尽くすこと。」は、言い換えると「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」とほぼ同義だと感じる。

 

その他、色々な経営や生き方に関する助言的な考え方は、どれも「その瞬間その瞬間の、ベストを尽くすこと。」が根底にあると考えている。

 

1日1日、ベストを尽くして、大切に生きよう。

前回の記事の続き。

ポリシーに合わないお客さんを避けるのではなく、ポリシーをぶつけろ。

というのが日記の締め括りであった。

 

しかし一転、本日「ポリシーが合わないお客さん」からクレームが入った。

良いものを見せて、ポリシーをぶつけようと思った矢先、出鼻をくじかれるタイミングがあり、こちらのモチベーションも下がってしまい、この結果だ。

 

この場合、そもそも引き受けない方がよかったのか、と考えてしまう。

私が適切なサービス提供者ではなかったのか、なんて思う。

 

 

世の中様々な商品がある。

購入して満足いくものがあれば、満足いかないものもある。

amazonのレビューを見るとわかりやすい。

同じ商品でも満足している購入者と、満足していない購入者がいる。

 

これはきっと、しょうがないことである。

そしてこれは、商品に限らずサービスにおいても共通することだろう。

 

 

だから、私は今回、ポリシーが合わないお客さんに

私なりの最高のサービスを提供することしか、今は選択肢が残されていないのだろう。

 

難しい。

ポリシーをぶつけろ

経営者の本気

経営者の熱い思いを聞くと、涙が出てきそうになる。

 

「この商品を世の中に届けたい」という気持ちや、「世の中に価値を認めてもらいたい」という真っ直ぐな思いが、胸に突き刺さる。

 

私はそのお手伝いをする仕事をしている。

生半可な思いでやれば、認められない仕事だ。

だからとことん成果にこだわるし、信用にこだわる。

元来「熱い思い」や「絆」みたいなものが嫌いな性分だったが、ここ最近は価値観が変わったのか、そういったものに魅力を感じる。

 

ポリシーをぶつけろ

熱い思いが強くなると、ポリシーに合わないお客さんを遠ざけ始める。

 

しかし

ポリシーにそぐわないお客さんの仕事は引き受けない。のは間違いだ。

ポリシーにそぐわないなら、自分のポリシーをぶつけてみよう。

 

これは、とあるドラマより学んだことだ。

 

相性は悪いお客さんはたくさん居る。

そのお客さんのことを考えて全身全霊かけて仕事しているつもりでも、どうも上手く喜んでもらえない場合もあれば、

時間が経つにつれてどんどん合わなくなってくる場合もある。

 

そういうことが重なると、合わないお客さんの傾向が見えてきて

ポリシーに合わないお客さんは避けるようになる。

 

でもきっと、そのお客さんに商品やサービスを届けたら

思いもしなかった喜びや幸福に繋がるかもしれない。

もしくは将来のリスクヘッジになるかもしれない。

 

だからといって「我慢しろ」というのではない。

「ポリシーをぶつけてみよう」と思う姿勢が大切なのだと思う。

 

ただそれには、用心が必要だ。

 

ポリシーをぶつけようとして関係がこじれ、悪化するケースもあるだろう。

そうならない為には、やはり保身する術を身に着けておくべきで

それは歴史上の先輩方が書かれた、書籍から学べるだろう。

 

避けず、戦い、先を読み行動する。

 

いつの時代の"戦術"にも、通じる考え方なのではないか。

 

 

 

 

優しくなれない

書店にて、東日本大震災発生時に記者が描いた、生々しくて悲しい記録を読んだ。

 

 

心が震える。

もし自分が家族を亡くしてしまったらと考えると、胸が痛む。

今の自分の考え方が正しいのか、強く考えさせられる本であった。

 

家族について思うこと

今日、兄と小さくぶつかってしまった。

一緒に仕事する関係でもある兄なので、ぶつかることはたまにある。

 

しかし、今日は「悲しい」ぶつかりだった。

胸がチクチク痛むような、そんなぶつかり。

 

詳しい原因はここに書かないが、なんとなく距離が遠くなってしまうような、そんなぶつかりだった。

 

 

自分は普段、怒ったりイライラすることが少ない方だ。

大抵のことは重く受け止めないよう心掛けているし、問題が降り掛かってきても怒りで解消しようとするよりも、違う方法で解決しようとしている。

 

しかし、兄には違う。怒りが生まれる。

そんな些細なこと、怒らなくてもいいのに、と自分で思うようなこともイライラしてしまう。何故だろうか。

 

本当は、仲良くありたい。

私にとってこの世で一番むずかしいことは、仕事の問題なんかではない。

家族問題だ。

 

投げっぱなしの文章で申し訳ないが、未だ解決方法はわからない。

 

自分について思うこと

私は、20歳の時に今の会社を立ち上げた。

立ち上げた当時は、よくいる「夢見る若者」で、億万長者になることを夢見ていた。

しかしそれは私の性分に合っていないように近頃は感じている。

 

 

事を成す人には、この2つの特徴が顕著な人が多い。

自己実現欲が極端に強い」もしくは「思いやり精神が極端に強い」この2つだ。

 

まずはじめに理っておくと、どちらが良い悪いの問題ではないことと、どちらか一方だけの人は居ないということだ。

 

 

はじめの自己実現欲が極端に強い」例は、イチロー選手がそうだと思う。

「こうなりたい」をひたすら磨き上げ、その姿を見た観衆は感動を受ける。

いわばヒーロー。だから皆憧れる。これが社会の良いサイクルになる。

 

一方、「思いやり精神が極端に強い」例は、歴史から言えばガンジーや、マザー・テレサのような人だと思う。

他者幸福を望むのか、共同体としての幸福を望むかは人それぞれかもしれないが、自己実現を最優先にせず、相手の成功のために尽くすのだ。

それが自分にとっての幸福や成功と思うタイプである。

 

人は生まれつきの素質があって、自己実現を目指して生きることが良い人も居れば、他者のことを思って生きることが良い人も居ると思う。

 

そして私はきっと、後者の人間であると思う。

 

人間、いつかは死ぬ

人間、いつかは死んでしまう。

だから、むやみに人を嫌ってしまってはいけないと思う。

優しくなれない人もたくさんいるが、優しくありたい。

価値の判断基準

マイケル・サンデル教授の共同体主義に対する考えを、儒者が論じる本を少し読んだ。

 そこで関連した出来事と、それに関する思いをつらつら書いていきたい。

 

サンデル教授、中国哲学に出会う

サンデル教授、中国哲学に出会う

 

 

事務所の解約

 

自分は4年ほど事業を営んでいるが、つい最近事務所を解約し、今はフリーランサーに近い動きで仕事を行っている。

 

事務所を解約した理由は、持つ意味があまり感じなくなってきたからだ。

外注委託しているスタッフが事務所の一角を使用し、仕事を依頼するような関係性で運営していた。

 

内心、裁量性で報酬を支払えるスタッフを持てることにメリットを感じていた。

勿論、法律的にはかなりグレーな形だ。

外注委託契約の場合は拘束してはいけないため、拘束力が発生した場合には法律違反になる。

それ故、自社の仕事以外も行っていいという条件の下、仕事を依頼していた。

 

しかしそういう形を取っていれば、生計の大半をうちの会社の報酬に頼らざるを得ないケースが出てくることは明らかだったが、そこを見ないようにしていた。

 

結果、やはり依頼が少ないということで対立が発生。

私はその関係性が嫌になり、事務所を解約するに至った。

 

後悔と思い

路頭に迷わされたスタッフは今、フリーターとして生計を建てている。

日々、後悔の念が私を襲う。こんな結果を招いてしまって申し訳ない思いだ。

 

この日記を読んだ方にとって私は、最低最悪な経営者だと思うだろう。

私自身もそう思う。

 

そもそも、この結果に繋がるなら最初から「外注委託先の人に事務所を使わせる」なんて形を取るべきではなかったのだろう。

成り行きに任せた報いなのだと思う。

 

事務所解約後

私はこういった事態がこれから起こることを防ぐために、どういう対策が出来るだろうと考えた。

そこでまずはじめに、根本的な問題として「価値判断の基準が明確でない」ところを直そうと考えた。

 

今回「外注スタッフを常駐させる」という判断を行う際、なんとなくこうでいいやと思って決めてしまった。

その結果が、スタッフの失業である。最低だ。

 

もし価値判断の基準に、スタッフの幸せを私の幸せより1%でも多く考慮していたら、違う判断を下していたはずだ。

 

そして、もしそのモラル(自己幸福49%以下/他者幸福51%以上)が持てないのであれば、経営をすべきではない人間だ。

 

思いやれる関係性が明確にあってこそ、会社は成立する。

家族間は、この関係性が生まれやすい共同体だと思う。

だから「家族を大切に思う」ことの、ハードルが低いのだ。

 

一転、会社は難しい。

もともと家族以外の「他人」を大切に思うようにならなければいけないのだ。

そこに経営者の倫理観・道徳観が高いことを必要とする理由がある。

 

改善のために

事務所を解約し、価値判断の基準を明確にする作業を行った。

 

具体的には、

(1)そもそも価値判断の基準の作り方が分からなかったので、本を読み、他者の意見を取り入れた。(特に経営学・心理学・哲学を中心に読み漁った。その分野に対する、自分の興味関心軸が太いため)

 

(2)嫌々やっていることと、好きでやっていることを明確にした。

 

(3)社会の判断基準を明確にしたかったので、法律の解説を一通りしている本を読んだ。

 

すると、以下のことがわかった。

(1)日本には、和の文化があり、共生や調和を重んじてきた。しかし現代は西洋的思想が入り混じり、人それぞれに重んじる「価値」が異なっている。

 

(2)自分にとって大きく価値を感じることは何かを考えるために、思いつくことをノートにひたすら書き出した。

その結果「人に感謝されたい/人に感謝したい」という欲を満たすことが、一番の価値であることに気付いた。

具体的に言うと「死ぬ時にありがとうと言いたいし、言われたい。」これが自分の目標(?)になった。

 

そして、本書と出会う

感の良い方はもうお気づきになっているかもしれないが、どうしてマイケル・サンデルの本を読んでいるかというと、「正義」について価値判断の基準を作りたかったからである。

そんな渦中に見た、「これから正義の話をしよう」の講義動画は、価値判断の基準を作ることに大きな影響を与えた。

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

そしてそれから3ヶ月ほど経ち、今日「サンデル教授、中国哲学に出会う」を読んだのである。

 

読んでみて。

全文読んだ訳ではないので、見当違いな感想・意見だったら申し訳なく思うが、やはり個人主義的思想は自分に合っていないと強く感じた。

 

西洋的思想の何割かは、「自分が成功するためには他者の苦痛も厭わない」ように見える。

そうして成り上がった先に見える世界がどんなに綺麗であろうと、自分が後悔の念に押しつぶされてしまいそうだ。

 

マイケル・サンデル氏はコミュニタリアニズム共同体主義)であるようだ。

コミュニタリアニズムは、資本主義内部で共同体の価値を実現しようとする立場である。1970年代頃から、リベラリズム自由義)やリバタリアニズム(自由至上義)に対する対抗軸として、政治社会学や政治思想の分野で使われるようになった。

 

私もそうでありたいと強く思う。

そしてそこに、私の価値判断基準を置こうと考えている。

 

(1)共同体主義である限り、他者利益を率先して考慮すべきであるし、そうでない行動・考え方は慎むべきである。

 

(2)他者に利益が生まれる行為を妨害するような行動をされる可能性があれば、その行為を避けるべきである。

 

(3)他者に利益が「より」生まれる行為を選ぶべきである。その利益が同等と見られる場合は、解釈を拡大して判断する必要がある。

それでも判断を下せない場合のみ、自己利益を判断基準とする。

 

これが私なりの価値判断基準である。

 

そしてこの判断基準は完全だと思っていない。

また多くの本を読んで、より自分に合った判断基準を探していきたい。

一人の力なんて、ちっぽけなものだ。

一人の力なんて、ちっぽけだ。

 

偉業を成し遂げた多くの成功者は、必ずそばに誰かが居ただろう。

一人で偉業を成し遂げるなど、不可能だ。

仮に一人で偉業を達成する誰かが居たとしても、誰かがその成したことを偉業へと昇華させる必要があるからだ。

 

何かを成し遂げる際には、

先生・パートナー・家族・仲間 など

必ず誰かとのつながりがあるはず。

 

だからこそ、つながりを大切にするべきだ。

 

 

「つながり」は多くの場合、言葉を持ってして生まれる。

相手を重んじる言葉・相手を尊敬する言葉は、事を成すには物凄く大切である。

その自分が発した言葉が相手を作り、相手が発した言葉が自分を形成するのである。

 

かと言って、誤解を招かぬように忠告すると

何も無理して関係を維持しろと言っているのではない。

無理がある関係は、うまく噛み合わない。

 

それをうまく噛み合わせようとするのも良し、流れに身を任せて関係の変化を待つのもよし。

その関係の行く先を、あなたは自由に選んでいいのだ。

ただ私が言いたいのは、「事を成すにはつながりが必要」ということだけ。

だからこそ、大事にしたいつながりを、大切に扱う心が必要だ。

 

 

とにかく、人間一人の力など、本当にちっぽけだ。

それを胸に刻んで、明日を生きよう。

 

タカ